
桐島聡は1974〜75年に東京都心で企業を標的にした連続企業爆破事件の容疑者で爆発物取締罰則違反容疑で指名手配されていました。
しかし、桐島聡は内田洋という偽名をもちいて半世紀にわたって国内で逃亡していました。
逃走中は神奈川の工務店で働いていたということです。
男は「内田洋(うちだひろし)」と名乗り、80年代から神奈川県藤沢市の工務店で住み込みで働いていた。金融機関の口座を持っておらず、給料は現金で受け取っていた。事件後の海外への渡航歴は確認されていないという。https://www.tokyo-np.co.jp/article/306022
桐島聡のプロフィール
名前:桐島聡(偽名:内田洋)
生年月日: 1954年1月9日
出身地:広島県
学歴:広島県立尾道北高等学校、明治学院大学法学部
桐島聡が逃亡を続けられた理由は?

東アジア反日武装戦線のメンバーなど当時の活動家たちは、極力目立たない行動をしながらも近隣とのあいさつは欠かさず、一定の関係を構築することなど、人々の間に「溶け込む」ことを強く意識していました。
桐島容疑者は、こうしたことを忠実に実行する一方、組織などからの支援は受けず、1人で逃亡を続けていたとみられます。もともと人間関係があった場所には近づかず、偽名を名乗り、運転免許証や保険証などは所持せず生活していたということです。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250218/k10014725961000.html
桐島聡の逃亡が続けられたことには、驚きと同時に複雑な感情を抱きます。
彼が周囲との関係を築きながらも、自己防衛のために徹底的に身を隠し、孤立した生活を選んだことは、彼の強い意志を示しています。
桐島聡の現在の活動
逃亡を続けていた桐島聡容疑者が去年1月、約50年ぶりに本名を名乗った。
末期がんで搬送された神奈川県の病院では、本名とともに事件のことも話したが、本名告白から4日後の2024年1月29日に入院先の神奈川県鎌倉市の病院で死亡しました。
死因は末期の胃がん。「最期は本名で迎えたい」などと話したということです。
警視庁公安部は、DNA鑑定を進め遺体は桐島聡容疑者だということが確定し、容疑者死亡のまま爆発物取締罰則違反と殺人未遂の容疑で書類送検した。
2024年3月21日、東京地方検察庁は容疑者死亡のため、桐島を不起訴処分とした
まとめ

桐島聡の逃亡生活は、彼が自己防衛のために徹底的に身を隠し、周囲との関係を築く一方で孤立した生活を選んだことを示しています。2024年1月、末期がんで入院した際に本名を名乗り、事件についても語った後、4日後に亡くなりました。
彼の死後、警視庁はDNA鑑定を行い、遺体が桐島聡であることを確認しましたが、容疑者としての立件は行われず、2024年3月には不起訴処分となりました。
この一連の出来事は、逃亡者としての彼の人生と、その背後にある複雑な事情を浮き彫りにしています。
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